大好きな古典ラジオで切腹を語ってました。
これを聞いて思い出したことがあります。
私はどちらかと言えばリベラルで合理主義者で資本主義を信じています。なので切腹と言う行為に、何の合理性も見出せないと考えてました。よく不祥事を起こした人や会社が謝罪会見をしているの冷ややかに眺めていました。そんなんじゃねーんだよなぁって。
でも私も比喩としての切腹をしたことがあったことを思い出しました。
大学生の時です。とある授業で友人と言うほどでもない知り合いが欠席していたんです。頼まれてもいないのに余計な気をきかせて代返したんです。ところが授業中にその担当教官がそいつがいないことに気がついてしまったのです。
誰か代返したな。名乗り出ないならこいつに単位はやらない。
と言って帰っていきました。完全に薮蛇でした。仕方がないのでその担当教官のところに行き私がやりました。勝手にやったんで私の単位を取り消してくださいと言いました。そうしたところお前のその潔さに免じて2人とも単位もやろうと言われました。
私としては合理的な行動だったのですけれどもその教官にとっては切腹だったのかもしれません。
こうして考えると
切腹というのは、責任を取るということかもしれません。
名誉ある自己犠牲。仲間、組織を大切にすることですね。
やんやんさんも言ってましたが、切腹がなければ、戦国時代がずーーと続いていたのかもしれません。組織間の揉め事を一人の名誉ある死で収める。
切腹というものは、私が考えているより、よほど合理的なものかもしれません。
太平洋戦争の時には、これが特攻として利用されました。仲間(日本人)のためと言うより組織、軍部のためでした。
日本には昔から姥捨てや人柱と言う風習がありました。これもある意味、切腹ですよね。将棋の投了もこれに近いものかもしれません。
だから日本には自殺に対するハードルが少ないのかもしれませんね。
一方で、人を道連れにする破滅的行動ってあります。
例えば秋葉原事件。相模原事件など。イスラム原理主義もある意味そうかもしれません。自分が苦しいのは人のせい。社会をつぶしてしまうという考え方ですね。同じ自死でも全く違いますね。
切腹なんて。と思ってましたが、意外と深いものだと考えさせられました。